お茶がつなぐ、人と地域。碗に向き合う特別な体験を
煎茶の一服は、まるで時の流れをそっと留めるような瞬間。立ち上る香りは新緑のささやき、碗の温もりは大地のぬくもりのよう。ひと口含むと、ほのかな渋みと甘みが静かに広がり、心に安らぎをもたらします。五感で自然と語り合う、穏やかなひとときです。
そんな印象に残る特別な体験を提供してくれるのは、日本茶の知識に精通し、独自の自由なスタイルで野点(のだて)や煎茶の楽しみ方を伝える秋吉孝治さん。和菓子店やお茶専門店、畳店など地域のお店とのつながりを大切に、SNSや講座を通じて多くの人に煎茶の魅力を共有し、甘木のお茶文化を支える存在です。
秋吉さんが煎茶の道を歩み始めたきっかけは、江戸時代の僧で煎茶道の祖とされる売茶翁(ばいさおう)に影響を受けたことだといいます。「売茶翁は、茶の美を特別なものとして押し付けるのではなく、日常に溶け込ませる人でした。その自由な精神に惹かれました」。
甘木のお茶文化を支える和菓子店と製茶問屋
取材の日、秋吉さんとともに野点を楽しむために訪れた最初の場所は、彼がより深く煎茶を嗜むきっかけとなった朝倉市甘木の老舗和菓子店「御菓子司 亀屋」。「和菓子の魅力は、季節感を美しく表現するところにあります」と話す秋吉さんがこの日選んだのは、春の桜を思わせる淡いピンク色の銘菓『帰省』。その名は、明治から大正にかけて活躍した朝倉市出身の詩人・宮崎湖処子の作品から取られています。
「お菓子を作る職人の顔が見える和菓子って、本当にいいものだと思います」。その言葉には、手仕事のぬくもりと文化の豊かさを大切にする秋吉さんの想いが込められていました。
次に訪れたのは、九州産の茶葉を仕入れ、自社工場で熟練の職人が製茶を行った茶葉を扱う製茶問屋「製茶所山科」。
産地や品種、蒸し、製茶具合など、茶葉にはそれぞれ個性があり、淹れ方次第で味わいや香りも変わります。
多種多様な茶葉が並ぶ中から、今回の野点で楽しむために秋吉さんが選んだのは、茶葉がしっかりとした浅蒸し茶『はるもえぎ』。初めてお茶を楽しむ人にも手に取りやすい手頃な価格と味わいで、親しまれています。
そのほか、店内にずらりと並ぶ珍しい茶葉の特徴や、お茶の魅力について教えてくれた秋吉さん。「お茶は味だけではなく、お茶の淹れ方を通じておもてなしの心が表れます。そういった奥深さも魅力です」と笑顔で語り、その深い魅力に引き込まれるひとときを共に過ごしました。
美しい風景を背に独自の野点を楽しむ
必要な道具を揃えたら、いよいよ野点の時間です。この日、秋吉さんは平塚川添遺跡公園の高床式倉庫を背景に、野点を披露してくれました。美しい風景と風に揺れる木々の音が広がる中、茶器や敷物を手際よく準備しながら、野点の空間を丁寧に整えていきます。
「お茶には正解がない」と秋吉さんは言います。そんな彼が教えてくれたのは、決められた作法や枠にとらわれない独自の自由な楽しみ方。一煎目は「はるもえぎ」を常温の水出しで淹れ、その後、徐々に温度を上げながら三煎を淹れてくれました。「湯温や浸す時間を少し変えるだけで、味が驚くほど変わるんですよ」と話す秋吉さん。淹れ方次第で、同じ茶葉でも全く違った個性が引き出され、さまざまな風景が広がります。一杯ごとに新たな世界が見え、味わいを通して発見と楽しみが生まれるのです。
野点を行う際、秋吉さんは参加者に「普段使っている湯呑み」を持参してもらっているそう。「湯呑みには持ち主の物語が刻まれています。それを知ることで、茶の時間がより豊かになるんです」と話す秋吉さんは、取材スタッフの湯呑みにも興味津々の様子。こうしてお茶を通じて、自然、人、地域の歴史や伝統が一つに繋がる特別な時間が生まれます。それは、ただの一服以上の深みを持つ、心に響くひとときでした。
甘木には、秋吉さんが愛するような和菓子店や茶葉専門店が点在し、伝統が今なお息づいています。煎茶を通じた秋吉さんの想いと活動は、甘木の魅力を再発見する旅そのもの。その旅に寄り添うことで、私たちは新たな価値観や文化に触れることができるのです。